2013/04
ナイチンゲール記章に輝く看護婦萩原タケ君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ 6 ]


あきる野市五日市地域交流センター前



日本赤十字社発祥地
 JR飯田橋駅北口を出て外堀に沿って北に行くと、東京逓信病院の道路沿いに「日本赤十字社発祥地」の立札がある。明治10年に博愛社事務所が置かれた場所だ。飯田橋にはもう一つ、東口の目白通りに「日本赤十字社跡」の碑がある。
 日本赤十字社は場所を転々と変わり、明治19年には現在のホテルエドモンドの付近にあり、明治27年に飯田町停車場が異形のためにこの碑の場所に移り、大正元年に現在の港区芝大門に移ったという。赤十字病院は明治24年に渋谷御料地(現在の渋谷区広尾)に移転開院したので、萩原タケは広尾の病院で研修したことになる。

自由民権運動の空気の中で
 檜原街道と秋川街道が交差する東京奥多摩の武蔵五日市はその昔、炭焼と木材の集散地で五日毎に市が開かれていた。ここから秋川・多摩川に筏を組んで荷物を運んだので、近郊の村としての賑わいがあった。明治の初めに各地で自由民権運動が盛んになったが、五日市も憲法草案が起草されるほどに、民権運動が盛んな地であった。
 萩原タケの家はここで炭屋を営んでいたが、父喜左衛門は実直だが商売下手で、1873年(明治6年)タケが生まれたころには藁屋に変わっていた。後妻であった母ちよは漢方医石川家の出身で、祖父石川友益は尾張藩士・幕府の昌平黌で学んだ漢方医だった。
 田舎の女の子が学校へ通うことは少なかった時代に、タケは5歳で勧能小学校に入学し、優等賞を貰うほどの利発な子であった。小学校の校長千葉卓三郎は自由民権運動の中心的指導者であり、タケも田舎に住みながらも自由な雰囲気を感じ取っていたのだろう。本好きなタケは弟たちの子守をしながら、祖父の家から借りた本を読みあさったという。
 その後タケは村の小島医院で小間使いとして働きながら、医院にある医学や薬学の本まで読んだ。小島利邑医師も感心して、女性医師や看護婦の話をタケに話して聞かせた。
 丁度そのころ「女学雑誌」が創刊され、タケはこの雑誌の通信教育を受講した。受講科目は作文・和歌から算数、動植物学、理化学、地理・歴史、英語、育児、裁縫まで多岐にわたり、3年かかって1891年(明治24年)19歳の時に全科目を修了したという努力家である。


職業婦人を目指す
 普通なら嫁入りを考える年頃に雑誌から新しい思想を学んだ彼女は、自立の道を選んだ。医師開業試験に合格した女性の先輩に荻野吟子、生沢クノ、高橋瑞子がいる。生沢、高橋の二人は最初に産婆学校で学んだことから、タケも東京に出て東京産婆学校に通った。お金が乏しいので親せきの家に間借りして、両国の産婆学校まで長距離の徒歩通学をしたが、結局疲れ果てて1年間で退学してしまった。
 次にチャレンジしたのは看護婦への道であった。当時の看護婦養成機関としては有志共立病院看護婦養成所(創立1884・現慈恵医大)、京都看病婦学校(同1885・同志社病院)、帝国大学医科大学看病法練習科(同1888)、日本赤十字社看護婦養成所(同1890)が設立されていた。
 萩原タケが目指した日赤看護婦養成所の受験資格は、独身であること、年齢は20歳から30歳、読み書き算術ができることの3つで、養成期間は学業1年半・実地2年であった。タケは早速受験して1893年(明治26年)に合格した。入学したのは士族の娘が多く、タケのような平民の娘はまだ少なかったので、辛い思いをすることが多かったようだ。しかし頑張り屋のタケは、日清戦争に看護婦として従軍し、明治29年(1896)の岩手県三陸津波救護活動に勤務し、同年に首席で卒業し、二等看護婦の資格で日赤看護婦となった。


看護婦として従軍も
 看護婦を直接指揮するのは看護婦取締で、初代取締は高山盈である。藤堂家家臣吉岡家の出身で、福山藩士高山宣直と結婚した。士族の出身である。2代目看護婦取締は佐藤少将の娘・佐藤梢、3代目は宮中女官典侍加藤まさが看護婦取締と、出自はいずれも華やかなものであった。
 平民の出身のタケは看護婦仲間から差別されることがあったが、仕事ぶりは橋本綱常病院長、高山看護婦取締から評価され、1899年に一等看護婦兼主任看護婦となった。1900年の北清事変では病院船弘済丸に看護婦長として乗組み、傷病兵の救護に活躍した。病院長の橋本は越前藩橋本左内の弟で、長崎で松本良順やボードウインに西洋医学を学び、東京帝国大学教授、東京陸軍病院長を兼務していた。
 1903年には30歳にして看護婦副取締となった。しかし看護婦取締になるためには、仕事ぶり以外に箔付けが必要であった。そこで日露戦争に従軍、1907年34才の時に山内侯爵夫人のお伴でパリに行き、パリ滞在中に梨本宮夫妻の随員に選ばれてスペイン、イタリア、イギリス、ドイツなど7カ国訪問に同行、更にロンドンで開催された第2回看護婦国際会議に出席して帰国し、1909年にようやく、第4代看護婦取締に選任された。


日本女性の地位向上に活躍
 1911年(明治44年)平塚らいてうらによって女性月刊誌「青踏」が創刊され、翌年には女子英学塾(現津田塾大学)、東京女医学校(現東京女子医科大学)、女子美術学校(現女子美術大学)、1912年には日本女子大学校が設立された。萩原タケが日赤看護婦監督(取締を改称)になったのが1910年で、女性の地位向上と意識改革が進みつつある時代に同期していた。
 1912年に第3回看護婦国際会議がドイツのケルンで開催され、日本も招待されて萩原タケ、湯浅梅、秋元みちの3人がオブザーバーとして出席した。正式メンバーになるためには国を代表する看護婦協会を設立する規定になっている。しかし当時はまだ、協会設立など女性の示威活動と疑われたり、アカと呼ばれた労働組合と同類に見られて、看護婦協会設立は困難であった。
 1928年(昭和3年)に漸く日本赤十字社の看護婦で構成する「同方会」を組織し、翌1929年に日赤、東大病院、聖路加病院、慈恵会病院、済生会病院の看護婦会を構成員として日本看護婦協会を設立し、会長に萩原タケが選任された。
 その年に開催された第6回看護婦国際会議(モントリオール)には、日本占領下の朝鮮看護婦協会が代表を派遣した。一国一協会の規定により、萩原タケはこの時も正式メンバーになれなかった。日本が正式メンバーとして加盟したのは1933年の第7回会議であったが、萩原タケは病気・高齢のために出席できなかった。
 萩原タケは日本赤十字社看護婦監督として28年間勤務し、その間に1919年(大正8年)にはシベリア出兵の看護婦活動を視察、1923年には関東大震災の救護活動に活躍した。看護婦養成所で指導された看護婦は2700名を超えるといわれている。
 1920年、ナイチンゲール生誕100年を記念して制定された第1回ナイチンゲール記章を、萩原タケは湯浅梅、山本ヤオと共に受賞し、理想の看護婦と称えられた。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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